文章
玄妙は語らず、地に足のつく部分だけを。経義、術数、事例、そして一人の道士から見た現代の暮らし。
日主を我として、盤の残りの干支を生剋の関係で十の名目に分けます。まず有無、次に位置、それから強弱。これは第一層であって、結論の層ではありません。
大運は環境、流年は目の前の一年。つらい年はたいてい原局と大運と流年の三方が同じ側に重なっています。ついでに、交運の前後の二年がなぜいちばん断じにくいのかも書きます。
用神は全局でいちばん必要な行、忌神はいちばん苦手な行です。定めるのは必要であって、有無ではありません。ついでに、用神を取ることがなぜ八字でいちばん意見の割れる一歩なのかも書きます。
南半球の風水は丸ごと裏返すのではありません。形勢は裏返さず、天星も裏返さず、羅盤はそのまま読む。裏返すのは後天の地理卦と、節気の当てはめ方です。
外で何を見て、羅盤で何を測り、入ってから一間ずつ何を見て、最後にどういう紙をお渡しするか。
読めるのは傾きと調子で、具体的な出来事は読めません。ついでに、この仕事でいちばん当てにならない入力、生まれた時刻の話もします。
「気口」という言葉を実際の話に落とすと、入って三歩、扉がどちら向きに開くか、開けて何が見えるか、になります。シドニーの家にはもう一条あって、多くの家では本当の入口が玄関ではありません。
「迷信」という帽子も、「実は科学なんです」という帽子も、どちらも被りません。あれは三つめのものです。
眠れないというのが、家を見てほしいと言われるいちばん多い理由です。枕元、窓、扉、梁、鏡、手洗い。調べられるものはどれも目で見えるものばかりです。
竈の背後には靠るものを。動線に横切られないこと。流しと冷蔵庫にくっつけないこと。アイランドにコンロを載せる件は、たいていやめておくよう申し上げます。
「為」は先秦では造作する、強いるほうへ寄った語です。無為が止めているのは妄りに動くこと。庖丁のあの刀は十九年使って刃こぼれしていませんが、それは彼が刀を入れなかったからではありません。
通行本のあの「常」の字は、もとは「恒」でした。漢の文帝の諱を避けて改めたものです。それともう一つ、二千年決着のついていない読点があります。
全真は出家し、菜食し、婚姻しません。正一は多くが在家の道士です。戒律が緩いかどうかという問い方が間違っていて、二つははじめから別の道を歩いています。
書店にある『周易』は、前半が殷周の変わり目の占辞、後半が数百年後に書かれた哲学です。この二つを分けないまま読むと、何を読んでも取り散らかります。
英語サイトに長く置いてあった教科書口調の問答を、普段の答え方そのままに書き直しました。
陽は積極ではなく、陰は暗いことではありません。位置を示す一対の語で、同じものでも比べる相手が変われば側が変わります。ついでに、いちばん誤読されている「陽日主」と「陰宅」の二つも片づけます。
「行」は運行であり、段階です。木火土金水が示すのは五つの運動の傾きです。ですから「金を補う」とは暮らしの構えと広げた仕事を補うことで、装身具のことではありません。
十の天干と十二の地支を一つずつずらして組み、六十歩で元へ戻ります。六十進法の循環する符号で、年月日時を記し、八字と択日がその上に立っています。