シドニーで席に着いた方の最初の一言は、たいてい「私はどういう命ですか」ではなく「今年はどうですか」です。
この問いは単独では答えられません。同じ流年が二人の上に落ちても、一方には雪に霜を加えることになり、もう一方にはちょうど欠けている側を補うことになります。答えるには、問うておられる方がいまどの一歩の大運を歩いているかを先に知る必要があります。
大運はどう並べるか
大運は一から立て直すのではなく、月柱から続けて並べます。
順に並べるか逆に並べるかは、生まれた年の天干の陰陽と性別が噛み合うかどうかで決まります。陽年の男命と陰年の女命は噛み合っていて、月柱の干支を後ろへ一つずつ推します。陰年の男命と陽年の女命は食い違っていて、前へ推します。一歩が十年を受け持ちます。
起運の年齢はこう折ります。順なら、生まれた日から次の節が交わる時刻まで数えます。逆なら、戻って前の節まで数えます。出た日数を三日で一年に折り、一日で四か月に折り、余りの時辰を日に折ります。ここで数えるのは十二の節だけで、立春、啓蟄、清明と続くあの列です。中気は入りません。節と節のあいだは三十日ほど空いているので、一歳に満たずに起運する方もいれば、九歳まで待つ方もいます。違いは、その方が数える向きの節からどれだけ離れているかだけです。節のすぐそばに生まれた方は起運がほぼ零に貼り付き、いちばん離れた方は九歳あたりまで延び、ちょうど真ん中の数日の方は五歳あたりになります。同じ日に生まれた二人でも、一方が順、一方が逆なら、起運が七、八年違うことがあります。
由来は素朴です。一歩の大運が十年を受け持ち、一か月は三十日。三十日を十年に配れば、三日で一年、一日で四か月になります。私はこのとおりに使っています。学んだときにそう学んだからです。どれだけ厳密かと問われれば、答えられません。これが与えるのは一つの目盛りで、目盛りが正確かどうかは、後から何度も照らし直すしかありません。
ついでに、よく訊かれることを一つ。南半球では起運を算えるのに節気を替えるのか。替えません。交節は天文上の一つの時刻で、世界で同じ時点です。日数はそのまま数えます。旺相休囚は当地の寒暑で算えます。理由は風水の側と同じ一条で、別のところに書きました。同業には北半球の節気の月で判じる方もいて、それも筋は通っています。この層が八字の旺衰の上で具体的にどう落ちるかは、まだ照らし合わせている最中です。
流年
流年とはその年の干支のことです。年に一度替わり、替わるのは立春の交節のその瞬間で、一月一日でも旧暦の正月一日でもありません。
シドニーでこの一条を説明するのは格別に骨が折れます。こちらにはもう一つ「年」があるからです。会計年度は七月一日から始まります。お客さんの頭には同時に三本の境目が入っていて、「来年の商売はどうですか」と訊かれたら、まずその来年がどれなのかを確かめることになります。これは毎年言い直しています。
三方が同じ側に重なった年が、つらい年
原局は土台で、この人がどう組み上がっているかであり、一生動きません。大運はこの十年どういう環境に立っているか。流年はいまこの一年に加わる一筆です。
同じ一文字がこの盤を助けるのか押さえるのかは、この盤に何が欠けているかによります。一文字の良し悪しだけを見ても何も分かりません。三方がどちら側に重なっているかを見ます。
三つとも欠けている側へ押せば、人は支えきれません。もともと薄いところへ、この十年の環境がさらに力を加え、その年の流年が同じ字をまた引き起こす。こういう年、人はたいてい運が悪いとは思わず、自分が至らないと思います。逆も同じで、短いほうを大運が補っているところへ流年が同じ類の一筆を足せば、その数年は何をしても押せます。
この十年の環境が広ければ、不利な流年もたいていは一年の不調で、年が明ければ片づきます。環境がもともと狭いところへ流年が一つ来れば、この一年はどうやっても越えられないと感じます。同じ丙午の年でも、何ということもなく過ぎる方と、ずいぶん骨の折れる方がいます。
交運の前後の二年
ここが私のいちばん結論を出せないところで、同業のあいだでもいちばん意見の割れるところです。
大運は開閉器ではなく、時が来てぱちんと替わるものではありません。実際には前の一歩の力がまだ残り、次の一歩の力がすでに滲んできていて、あいだの一、二年は二つの力が絡み合い、読み出したものがしばしば互いに食い違います。交運の日で正確に切る先生もいます。交運の日の前は旧運、後は新運。進気で算える先生もいて、一年二年前倒しで新運として見ます。新運の字が流年に現れて引き動かされてはじめて正式につながったと見る立場もあります。どれも筋は通りますし、それぞれに合う実例と合わない実例があります。この件を誰もが納得するところまで説ききった人を、私は見たことがありません。
お客さんがちょうどこの二年に掛かっているときは、無理に結論を出しません。この二年は確信が持てません、とそのまま申し上げます。差し上げられるのは、二通りの読みがそれぞれ何を指すか、そしてどちらの読みでも成り立つ判断はどれか、です。その部分は使えます。残りは事が過ぎてから振り返ります。これを好まれない方もいます。お金を払った以上は確かな一言を持ち帰りたいからです。差し上げられません。無理に出せば、それは私が作ったものです。
振り返ることを、私は本気でやっています。お客さんが一、二年して再び来られたら、前回書き留めた数条を一つずつ照らします。どの一段が当たり、どの一段がまるで合わなかったか。合わなかったのは原局の層を浅く読んだからか、交わりの層の取捨を誤ったからか。ときには交運の時点を早く見ていたと分かりますし、ときには交わりとは全く関わりなく、最初からこの盤の偏っている側を軽く見ていたと分かります。この種のことは本を読んで補えません。他人の事例も半分までしか助けになりません。正すのは自分のあの物差しだからです。一枚ずつ溜めるしかありません。いまもなお、この過程に終わる日が来るとは思っていません。こうして照らし直させてくださるお客さんは多くありません。たいていは訊き終えて帰られます。
オーストラリアではどういう節目に訊きに来られるか
転職はよくある一類です。シドニーの転職の調子は本国と違い、ヘッドハンターから数か月に一度声が掛かるうちに、ある年ふと心が動いた、という方が少なくありません。知りたいのは時期です。いま動くか、もう一年待つか。大運と流年はこの層でなら確かに何か言えます。たとえばこの一段は外へ広げる時か内へ収める時か、一度の収入の途切れに耐えられるか。その会社が行くに値するかどうかは、契約を見て、業界を見てください。私に訊かないでください。
家を買う件がいちばん多く訊かれます。たいていはもう決めてから来られますし、契約を済ませてから、胸のつかえを訊きに来られる方もいます。差し上げられるのはこの期間そのものの張りと緩み、それから引き渡しや入居といった択日の部分です。価格がどちらへ行くか、ローンが割に合うかは、資格のあるブローカーと会計士へ。私は触りません。
子の進学は、たいてい親御さんが訊きに来られ、学校選びと Year 12 の年についてです。ここは私がいちばん保守的に話します。お子さんは年が若く、すでに起きて日付の確かな大きな出来事が少なすぎるので、時刻を正せず、照らし直す材料もありません。
私がやらない部分
何年に事が起きるか、先に避けるべきか。これは答えません。一定の期間が張っているか緩んでいるかは読めますが、具体的にどの一件が何日に、は読めません。実際に事が起きたら、病気は医者へ、法律は弁護士へ、投資と事業の決定は資格のある会計士か顧問へ。この一句はどの篇にも書いています。相談のたびに一度は口にすることでもあるからです。
自分がどの一歩の大運にいるかを知って何になるのか。私の経験では、役に立ち方はたいてい小さく、そして具体的です。この数年は内へ収める時だと分かっていれば、この数年のうちに仕事を辞めて店を一軒持とうとはしません。